一粒のタネ
皆様おはようございます。松木武久農園の営業担当です。正月ボケもいいところで、昼夜逆転みたいになってるので戻そうと、徹夜してみました。プロジェクトXを見逃して、深夜に再放送をみて、「食育」を給食を通して実践してる方の活動をみて、非常に共感する。
「子どもに迎合して、好きな物ばっかり食べさせてたら絶対にダメ!無理やり嫌いな物を食べさせるのではない根性の入った愛情こそ、どんな教育よりも子どもの明日を、身体を、心をつくる!!」
子どもを育てているお母さん達や、若い女性にこそ、読んで貰いたいです。ちょっと長いし、読みにくいですが。
実体験だけあって、入り口としては、これは読みやすいかも・・・↓
4年前、真弓先生の講演会が店長の子どもが通う保育園でありました。
そこで、初めて先生のことを知りました。
その講演会で伺った話に、アタマをハンマーで殴られたような衝撃を覚え、
興奮して家に帰りました。
当時は、東京の某出版会社「○クルート」で、国内旅行情報誌を
作るのにやりがいを感じていた店長でしたが、
真弓先生の話を聞いて、
「こうしちゃゃいられない! もっと、しなくちゃいけないことがある!!」
と、その2ヵ月後に会社を辞め、自然食品の世界に
足を踏み入れることになったのでした。
「●アメリカの小麦戦略とは?
第二次世界大戦で日本が負けた、1945年(昭和20年)。
それ以降、日本の食生活は急速な欧米化が進みました。
実は、その背後にアメリカ国内に余剰している「小麦」を消費させる
ための国家戦略があったことはほとんど知られていません。
大規模な粉食キャンペーン、パンとミルクの学校給食への採用などに
代表される、当時の「栄養改善運動」は、アメリカの主要な輸出農産物の
市場開拓を目的に仕組まれたことだったのです。
(アメリカでは、戦争前から国内の小麦の余剰が問題となっていましたから。)
具体的には、GHQの指導により、「栄養改善運動」と称して
「パンと脱脂粉乳」の給食が決められ、子ども達に小麦と牛乳の食事を
させました。
同時に日本では「学校給食法」が制定され、「小麦粉食を基本と
する学校給食の普及」が条文に盛り込まれました。
モノのない時代に、毎日パンとミルクを飲んで育った子どもは、
それが正しい食生活だと錯覚し、食生活に対する日本人の
意識は変わってきました。
「牛乳を飲まないと、大きくならない。」
「小麦粉を食べると頭がよくなる。」
とそう刷り込まれてきました。
こうした世代が大人になって、今日本は、世界中の料理が手軽に
食べられるのが当たり前の豊かな世の中になりました。
しかし、今の日本の食卓は輸入農産物なしには成り立ちません。
輸入農産物の流入増大で日本の農業は減退し、今やアメリカ他
海外の助けがないと、日本人は生きていけなくなりました。
全ては、戦後のアメリカの「小麦戦略」により、意図され、
また得られた成果なのです。」
ちなみに、少し前に「1日30品目食べましょう」なんてことが
国を挙げて言われていましたが、これも日米の貿易摩擦緩和の
ために奨励されたことだったのです。
(アメリカの農産物が日本で売れないと困りますから・・。)
→http://www.rakuten.co.jp/taiyo-shizen/722132/774173/774174/774175/
今 子どもが危ない 食と環境への危機感を覚える
戦後60年日本の食の歴史と私の食歴・職歴・・・http://www.yell-corp.com/book/book.html
*日本の食の歴史がまとめられてるので、参考になるかと。いろんな書籍も紹介されてます。

うちは、母がだいぶ変わっていた方だと思います。チョコレートもポテトチップもコカコーラも、禁止。理由は身体に悪いから。そして、虫歯になっても歯医者さんが遠いし、忙しくて連れていけないから。セブンイレブンもマックも遠い存在でした。おやつってのも、あんまり食べた覚えがないです。(学童保育に行くようになって、初めてお菓子って美味しいなって思ったくらいです)
だいたい学校から帰っても母はいないので、おばあちゃんの作る、ニラせんべいとか、正月の残りの餅のおかきとか、味噌むすびとか、戴き物の栗ようかんとか、シロツメクサの蜜とか・・・食べてたような気がします。
ある時、母に、お腹がすいたっていったら、
「人参は甘くて美味しいよ~!」 って言われてゲンナリしたのを覚えてます。
小学校の宿題で作文書いて、「母の作ったドーナツはチョコレートよりも美味しいです!」って書かされたのも覚えてます。本当は、手作りで一緒に作るドーナツもいいけど、チョコ食べたいなぁ。また、おじいちゃん買ってきてくれないかなぁ。。。って思ってましたw (チョコ禁止だったけど、祖父が甘党で町に行ったら、自分用の明治の板チョコとか買ってきて、こっそりくれたりしました。)
だいたい農家の村育ちなので、小学校行く前に田んぼに落っこちて泥だらけになってるような子供時代だったので、「食べ物は育てないと、食べられない。」ってのは当たり前に見て育った方だと思います。
中学生くらいで、母の本棚から 「子どものキレル原因は、過剰な調味料、食品添加物だ!」みたいな本を読んで、高校の文化祭で調べようとしたりして、県庁まで一人で、お話を聴きに行ったり(当時の担任にアポとって頂いたような・・・)、その本の作者に直接℡するような子どもに育ちました。
大人になって、一人暮らししてから反動で好きなだけお菓子を買えるようになったけど、周りの女の子たちよりはお菓子に執着がなかったような気がします。どっちかって言うと、今の方がストレスからジャンクフードに走るコトがあるくらいです。
初めてのちゃんとしたバイトを松戸の老舗っぽいフランス料理店で初めて(どうしても、そこでバイトしたくて、ガス〇で3年間アルバイトしてたって嘘つきました
)、先輩のソムリエさんに
「君はな~んにも知らないけど、舌の感覚だけは筋がいいかもね。」
と言って貰えて、嬉しかったのと、親に感謝したのを覚えてます。母は、なかなか外食なんて出来ない環境だったけど、大きな休みには
「美味しい物は、プロの作った物を食べないと、作れないから。」
と言っては、長野市内のいろんなお店に連れていってくれました。展望レストラン青い銀河さん、吉田の カレーのべんがるさん、戸隠の喜太郎さんのお店チェンバロ、山楼海鮮 懐石 萬佳亭(まんかてい)さんとか・・・。そんなにしょっちゅう行ける訳もないから、年に2回の大きなお休みの度に、母が第二の母から聞いて、気になってるお店に連れて行ってくれました。
そして普段の食事は、たいてい祖母が作ってくれてたので、おばあちゃんの味で育ったんだと思います。
季節の旬のお野菜の入ったお味噌汁に、ご飯、ナス味噌炒め、ピーマン炒め、今朝採りのトマト、オクラ、みょうが、ねぎ、かぼちゃ、おばあちゃん手作りのおうどん、蕎麦、やっぱり季節の野菜の天ぷら(うど、山菜、藤の花の天ぷらは今でも思い出深いです) おやき、ぼたもち、コロッケ、自宅で採れたジャガイモを、そのまま蒸して、味噌やバターつけて食べたり・・・。
学校から帰るとおばあちゃんしかいないので、夕ご飯の手伝いをいつもしてました。おばあちゃんの横で、おうどんを麺にするのを手伝ったり、コロッケを一緒にこねたり・・・包丁は持たせてくれなかったけど、とにかく、たくさんの思い出があります。だから、自分はこんなに食いしん坊に育ったんだと思います。築何百年の家で、お勝手(キッチン)は古くて汚くて、天井には穴が開いてるし、ねづみは走り回るし・・・環境的には決して、綺麗じゃなかったけど、あの古い台所は、私がいろんな事を学んだ場だったと、今は思います。
そして、子どもの頃の日課として、朝ごはんが炊けると、お仏壇(如来様と言ってたなぁ)に、一番にご飯を供えてました。朝ごはんは母が作っていた気がするので、これは母の言いつけだったかと。稲が採れると、神棚にお供えしたり、自然の恵みに感謝するのは日常のひとこまになっていました。 おじいちゃんっ子でもあったので、晩酌のつまみとかを貰ったりもしてた気がします。(ちくわとか、干物とか、塩辛とか、漬物とかね。それで、つまみ好きに?)一度、おじいちゃんが蛇を取ってきて、蒲焼にして、酒の肴にしてるのを見た時は、さすがにびびりましたが。。。
とにかく、食に関しては祖父母と母に感謝してます。


ちょいと情報をアップしてみます。
野口 勲「一粒のタネからのメッセージ」・・・以下は船井メディア発行の月刊誌『ザ・フナイ』新年号「自然農業への回帰」特集用に依頼された原稿用紙30枚分のTEXT全文です。 はからずも著書『いのちの種を未来に』と、講演DVDと共に、僕がお伝えしたい「固定種とF1の話」三部作ともいうべき内容になりました。 2009年2月7日現在、掲載誌は既に「完売」となっておりますので、ここに掲載します。「固定種とF1」理解の一助になれば幸いです。
・http://noguchiseed.com/hanashi/hitotsubunotane.html
下記は、サン・スマイルの松村さんのFBから抜粋しました。詳細は以下のnico通信よりご覧くださいませ。
~ 食と農の研究会研究集会 ~
野口 勲氏講演会
タネからはじまる無肥料自然栽培
2012年1月29(日) 会場:立教大学・池袋キャンパス 太刀川記念館3F
開場 13:30 / 開演 14:00 入場無料(整理券配布します)※
『タネが危ない』著者である 野口勲氏講演会&無肥料自然栽培農産物試食会を立教大学経済学部教授 郭洋春先生ご協力の下立教大学にて行います。
野口氏に加え、無肥料自然栽培9年目の関野農園 関野幸生(nico会長)と自然食品店経営 松浦智紀(nico相談役)三者のパネルディスカッションも開催。
無肥料自然栽培はなぜ「タネ」が重要なのか?
他では絶対聞けない話です。
現在あまり流通していない無肥料自然栽培のお野菜の味を自分の舌で、身体で、心で、感じてみませんか?
ご来場お待ちしております。
野口 勲氏(のぐち いさお)
野口種苗研究所代表。親子3代にわたり、日本の自給野菜作りを支えてきた在来種・固定種、全国各地の伝統野菜の種を扱う種苗店を埼玉県飯能市で経営。家業を継ぐ以前は手塚治虫氏の担当編集をしていたという異色の経歴を持つ。2008年「農業・農村や環境に有意義な活動を行い成果を上げている個人や団体」に与えられる山崎記念農業賞を受賞。著作に「いのちの種を未来に」(創森社)「タネが危ない」(日本経済新聞社出版)などがある。
郭 洋春(かく やんちゅん)
立教大学大学院経済学研究科卒。現在、同大学経済学 部教授。著書に新著「現在アジア経済論」(法律文化社) 「開発経済学」(法律文化社)「韓国経済の実相」(拓殖 書房新社)など。また埼玉県和光市関連での連携活動 として産業振興計画策定委員会委員長、商工会和光市 地域力連携推進委員会委員長を務める。他に豊島区 産業振興計画委員会委員長も歴任。23年11月20日に 開催の秋のフォーラム「これからの食糧・農業・経済」 (和光市)のパネルディスカッション・コーディネータ― を勤める。
→http://nico.wonderful.to/event.html
私がこういう事に、本当の意味で目を開かされたのは、ずくなしカフェという場を通してだと思います。よく、店主のまにさんが熱く語る話しを聞いたり、ハッピーバースカフェさんとの話しを通して、自分も出来るコトをしていかなくっちゃ!と思ったです。
「子どもに迎合して、好きな物ばっかり食べさせてたら絶対にダメ!無理やり嫌いな物を食べさせるのではない根性の入った愛情こそ、どんな教育よりも子どもの明日を、身体を、心をつくる!!」
子どもを育てているお母さん達や、若い女性にこそ、読んで貰いたいです。ちょっと長いし、読みにくいですが。
実体験だけあって、入り口としては、これは読みやすいかも・・・↓
4年前、真弓先生の講演会が店長の子どもが通う保育園でありました。
そこで、初めて先生のことを知りました。
その講演会で伺った話に、アタマをハンマーで殴られたような衝撃を覚え、
興奮して家に帰りました。
当時は、東京の某出版会社「○クルート」で、国内旅行情報誌を
作るのにやりがいを感じていた店長でしたが、
真弓先生の話を聞いて、
「こうしちゃゃいられない! もっと、しなくちゃいけないことがある!!」
と、その2ヵ月後に会社を辞め、自然食品の世界に
足を踏み入れることになったのでした。
「●アメリカの小麦戦略とは?
第二次世界大戦で日本が負けた、1945年(昭和20年)。
それ以降、日本の食生活は急速な欧米化が進みました。
実は、その背後にアメリカ国内に余剰している「小麦」を消費させる
ための国家戦略があったことはほとんど知られていません。
大規模な粉食キャンペーン、パンとミルクの学校給食への採用などに
代表される、当時の「栄養改善運動」は、アメリカの主要な輸出農産物の
市場開拓を目的に仕組まれたことだったのです。
(アメリカでは、戦争前から国内の小麦の余剰が問題となっていましたから。)
具体的には、GHQの指導により、「栄養改善運動」と称して
「パンと脱脂粉乳」の給食が決められ、子ども達に小麦と牛乳の食事を
させました。
同時に日本では「学校給食法」が制定され、「小麦粉食を基本と
する学校給食の普及」が条文に盛り込まれました。
モノのない時代に、毎日パンとミルクを飲んで育った子どもは、
それが正しい食生活だと錯覚し、食生活に対する日本人の
意識は変わってきました。
「牛乳を飲まないと、大きくならない。」
「小麦粉を食べると頭がよくなる。」
とそう刷り込まれてきました。
こうした世代が大人になって、今日本は、世界中の料理が手軽に
食べられるのが当たり前の豊かな世の中になりました。
しかし、今の日本の食卓は輸入農産物なしには成り立ちません。
輸入農産物の流入増大で日本の農業は減退し、今やアメリカ他
海外の助けがないと、日本人は生きていけなくなりました。
全ては、戦後のアメリカの「小麦戦略」により、意図され、
また得られた成果なのです。」
ちなみに、少し前に「1日30品目食べましょう」なんてことが
国を挙げて言われていましたが、これも日米の貿易摩擦緩和の
ために奨励されたことだったのです。
(アメリカの農産物が日本で売れないと困りますから・・。)
→http://www.rakuten.co.jp/taiyo-shizen/722132/774173/774174/774175/
今 子どもが危ない 食と環境への危機感を覚える
戦後60年日本の食の歴史と私の食歴・職歴・・・http://www.yell-corp.com/book/book.html
*日本の食の歴史がまとめられてるので、参考になるかと。いろんな書籍も紹介されてます。
うちは、母がだいぶ変わっていた方だと思います。チョコレートもポテトチップもコカコーラも、禁止。理由は身体に悪いから。そして、虫歯になっても歯医者さんが遠いし、忙しくて連れていけないから。セブンイレブンもマックも遠い存在でした。おやつってのも、あんまり食べた覚えがないです。(学童保育に行くようになって、初めてお菓子って美味しいなって思ったくらいです)
だいたい学校から帰っても母はいないので、おばあちゃんの作る、ニラせんべいとか、正月の残りの餅のおかきとか、味噌むすびとか、戴き物の栗ようかんとか、シロツメクサの蜜とか・・・食べてたような気がします。
ある時、母に、お腹がすいたっていったら、
「人参は甘くて美味しいよ~!」 って言われてゲンナリしたのを覚えてます。
小学校の宿題で作文書いて、「母の作ったドーナツはチョコレートよりも美味しいです!」って書かされたのも覚えてます。本当は、手作りで一緒に作るドーナツもいいけど、チョコ食べたいなぁ。また、おじいちゃん買ってきてくれないかなぁ。。。って思ってましたw (チョコ禁止だったけど、祖父が甘党で町に行ったら、自分用の明治の板チョコとか買ってきて、こっそりくれたりしました。)
だいたい農家の村育ちなので、小学校行く前に田んぼに落っこちて泥だらけになってるような子供時代だったので、「食べ物は育てないと、食べられない。」ってのは当たり前に見て育った方だと思います。
中学生くらいで、母の本棚から 「子どものキレル原因は、過剰な調味料、食品添加物だ!」みたいな本を読んで、高校の文化祭で調べようとしたりして、県庁まで一人で、お話を聴きに行ったり(当時の担任にアポとって頂いたような・・・)、その本の作者に直接℡するような子どもに育ちました。
大人になって、一人暮らししてから反動で好きなだけお菓子を買えるようになったけど、周りの女の子たちよりはお菓子に執着がなかったような気がします。どっちかって言うと、今の方がストレスからジャンクフードに走るコトがあるくらいです。
初めてのちゃんとしたバイトを松戸の老舗っぽいフランス料理店で初めて(どうしても、そこでバイトしたくて、ガス〇で3年間アルバイトしてたって嘘つきました
)、先輩のソムリエさんに「君はな~んにも知らないけど、舌の感覚だけは筋がいいかもね。」
と言って貰えて、嬉しかったのと、親に感謝したのを覚えてます。母は、なかなか外食なんて出来ない環境だったけど、大きな休みには
「美味しい物は、プロの作った物を食べないと、作れないから。」
と言っては、長野市内のいろんなお店に連れていってくれました。展望レストラン青い銀河さん、吉田の カレーのべんがるさん、戸隠の喜太郎さんのお店チェンバロ、山楼海鮮 懐石 萬佳亭(まんかてい)さんとか・・・。そんなにしょっちゅう行ける訳もないから、年に2回の大きなお休みの度に、母が第二の母から聞いて、気になってるお店に連れて行ってくれました。
そして普段の食事は、たいてい祖母が作ってくれてたので、おばあちゃんの味で育ったんだと思います。
季節の旬のお野菜の入ったお味噌汁に、ご飯、ナス味噌炒め、ピーマン炒め、今朝採りのトマト、オクラ、みょうが、ねぎ、かぼちゃ、おばあちゃん手作りのおうどん、蕎麦、やっぱり季節の野菜の天ぷら(うど、山菜、藤の花の天ぷらは今でも思い出深いです) おやき、ぼたもち、コロッケ、自宅で採れたジャガイモを、そのまま蒸して、味噌やバターつけて食べたり・・・。
学校から帰るとおばあちゃんしかいないので、夕ご飯の手伝いをいつもしてました。おばあちゃんの横で、おうどんを麺にするのを手伝ったり、コロッケを一緒にこねたり・・・包丁は持たせてくれなかったけど、とにかく、たくさんの思い出があります。だから、自分はこんなに食いしん坊に育ったんだと思います。築何百年の家で、お勝手(キッチン)は古くて汚くて、天井には穴が開いてるし、ねづみは走り回るし・・・環境的には決して、綺麗じゃなかったけど、あの古い台所は、私がいろんな事を学んだ場だったと、今は思います。
そして、子どもの頃の日課として、朝ごはんが炊けると、お仏壇(如来様と言ってたなぁ)に、一番にご飯を供えてました。朝ごはんは母が作っていた気がするので、これは母の言いつけだったかと。稲が採れると、神棚にお供えしたり、自然の恵みに感謝するのは日常のひとこまになっていました。 おじいちゃんっ子でもあったので、晩酌のつまみとかを貰ったりもしてた気がします。(ちくわとか、干物とか、塩辛とか、漬物とかね。それで、つまみ好きに?)一度、おじいちゃんが蛇を取ってきて、蒲焼にして、酒の肴にしてるのを見た時は、さすがにびびりましたが。。。
とにかく、食に関しては祖父母と母に感謝してます。

ちょいと情報をアップしてみます。
野口 勲「一粒のタネからのメッセージ」・・・以下は船井メディア発行の月刊誌『ザ・フナイ』新年号「自然農業への回帰」特集用に依頼された原稿用紙30枚分のTEXT全文です。 はからずも著書『いのちの種を未来に』と、講演DVDと共に、僕がお伝えしたい「固定種とF1の話」三部作ともいうべき内容になりました。 2009年2月7日現在、掲載誌は既に「完売」となっておりますので、ここに掲載します。「固定種とF1」理解の一助になれば幸いです。
・http://noguchiseed.com/hanashi/hitotsubunotane.html
下記は、サン・スマイルの松村さんのFBから抜粋しました。詳細は以下のnico通信よりご覧くださいませ。
~ 食と農の研究会研究集会 ~
野口 勲氏講演会
タネからはじまる無肥料自然栽培
2012年1月29(日) 会場:立教大学・池袋キャンパス 太刀川記念館3F
開場 13:30 / 開演 14:00 入場無料(整理券配布します)※
『タネが危ない』著者である 野口勲氏講演会&無肥料自然栽培農産物試食会を立教大学経済学部教授 郭洋春先生ご協力の下立教大学にて行います。
野口氏に加え、無肥料自然栽培9年目の関野農園 関野幸生(nico会長)と自然食品店経営 松浦智紀(nico相談役)三者のパネルディスカッションも開催。
無肥料自然栽培はなぜ「タネ」が重要なのか?
他では絶対聞けない話です。
現在あまり流通していない無肥料自然栽培のお野菜の味を自分の舌で、身体で、心で、感じてみませんか?
ご来場お待ちしております。
野口 勲氏(のぐち いさお)
野口種苗研究所代表。親子3代にわたり、日本の自給野菜作りを支えてきた在来種・固定種、全国各地の伝統野菜の種を扱う種苗店を埼玉県飯能市で経営。家業を継ぐ以前は手塚治虫氏の担当編集をしていたという異色の経歴を持つ。2008年「農業・農村や環境に有意義な活動を行い成果を上げている個人や団体」に与えられる山崎記念農業賞を受賞。著作に「いのちの種を未来に」(創森社)「タネが危ない」(日本経済新聞社出版)などがある。
郭 洋春(かく やんちゅん)
立教大学大学院経済学研究科卒。現在、同大学経済学 部教授。著書に新著「現在アジア経済論」(法律文化社) 「開発経済学」(法律文化社)「韓国経済の実相」(拓殖 書房新社)など。また埼玉県和光市関連での連携活動 として産業振興計画策定委員会委員長、商工会和光市 地域力連携推進委員会委員長を務める。他に豊島区 産業振興計画委員会委員長も歴任。23年11月20日に 開催の秋のフォーラム「これからの食糧・農業・経済」 (和光市)のパネルディスカッション・コーディネータ― を勤める。
→http://nico.wonderful.to/event.html
私がこういう事に、本当の意味で目を開かされたのは、ずくなしカフェという場を通してだと思います。よく、店主のまにさんが熱く語る話しを聞いたり、ハッピーバースカフェさんとの話しを通して、自分も出来るコトをしていかなくっちゃ!と思ったです。
2012年01月20日 Posted by 松木うさぎ at 06:25 │Comments(0) │TrackBack(0) │自然栽培
農業仲間
皆様こんにちわ。松木武久農園の営業担当です。メインブログの更新も、うさぎブログも更新できずにおりましたが、何とか
「無農薬のりんご」情報をお届けしなくっちゃと! 山梨の自然栽培の先輩のブログをご紹介させて頂きます。
↓
けっこう、たくさん収穫できたみたいですょ。最近、うちにも
「無農薬のりんごを購入できる先を知りませんか?」 というようなお問合せが増えまして・・・。
ただ、友人のところも、販売とかはしてないかとは思います。
野良り食楽りな日々~林檎の収穫~
のらりくらりと野良仕事。感謝しながら楽しく食べて笑って生きる!無肥料、無農薬の作物の様子、日々の出来事などを気ままに記します。→http://ameblo.jp/norarikurarinahibi/entry-11104732064.html#cbox
水輪ナチュラルファームさんブログより
12/3 F1の種について
みなさま、こんばんは。
本日の信州飯綱高原は
雨模様でした。
最近は大分寒くなってきました。・・・http://link.blog-headline.jp/vote.php?eid=28154
2011年12月13日 Posted by 松木うさぎ at 11:39 │Comments(0) │TrackBack(0) │自然栽培
はじまりは豪族?
そもそも、うちはいつから 「りんご一本で食っていく」 ようになったかと申しますと、祖父の代からのようです。りんご屋としては、うさぎで3代目。 「松木家」としては、過去帳で残ってるだけで、うさぎで8代目らしいです。 村中の年貢を集めておれば食うに困らない時代もあったらしく、うちの母なんかは
「お茶番していればいいから・・・。」
と言われて嫁に来たらしいです。母が嫁ぐ前は 「材木屋さんが木を買いに来たら、売ってれば良かった」らしいです。母は「騙された~、騙された~」とよく言っておりますがw そんな時代の事が染み付いてるのか、私が子どもの頃には
「世が世ならお姫さまでした。」 とか 「長野駅まで他人の土地を踏まずに行けて、豊作さんだか、七三郎さんの時代には駅前から年貢の米俵を家まで運ぶ行列が出来た。」とか 「農地解放で土地が半分以下に減った・・・。」 つーよーな話しを、祖父とか、近所の人とか、学校の先生にまで言われておったです。
が・・・当時はすっかり、ただのりんご専業農家で、四六時中働いてる祖父母と両親しか目にしてないので・・・
「??? それは江戸時代とか、大昔の話でしょ? 今の家は至って貧乏みたいだけど???」
非常に納得がいかぬまま、子ども心に、我が家の経済事情も、すっげー貧乏なんだか、すっげー金持ちなんだか?さっぱり謎なまま成長しました。(耳にする話しと、家族の切羽詰ってる日常とに、あまりに乖離があり過ぎてね・・・。他人には、「のりえちゃん家は土地持ちだから~・・・」とか、言われるけど、日々お金のやりくりとかしてる母を見るにつけ、どう考えてもお金があるようには思えなんだ。)
そんな感じで、祖父の代に田んぼから、りんご畑を広げて、武久君が18歳で跡を継ぎまして、更にりんごをどんどん、どんどん植えました。時は経済成長期で、ニッポンも景気が良かったので、この頃はうちも稼げたようでございます。
ので、130年だか建っていた藁葺きにトタンかぶせた(トイレはぼっとんでお外でした。お風呂にはアリンコが出ました。一度、蛇が煮えてたコトもあるらしいっす
)家を武久君の代で新築しました。両親が、「こんな家が建てたい~!」 という家を見に行きだしたのが、うさぎが小学4年生頃・・・その後、うさぎママが図面を引き始めまして・・・・中学2年~高校2年くらいまで借り暮らしで、母屋の隣の蚕室を改装して住んでおったです。山から木を切り出すところからいったら、10年くらいはかかってるんじゃないでしょ~か?うさぎの高校受験とか、全く眼中になく、我が家は新築になりました。しかし、うさぎ自体はその後すぐに、大学入学で千葉に行っちゃったので、一年くらいしか新築のうちにはおりませんでした~。
今から、思うに 「夫婦念願の家を新築」 してから、やっとこ外に目が向くようになったのではないか?と思われます。足場が固まったと申しましょうか? それまでは、まー、四六時中忙しいわ、親戚は多いわ・・・で、盆正月になると、恒例行事的に、うさぎママと武久君が大喧嘩する・・・・「うさぎママ、うさぎを車に乗っけて家出を企てる・・・」 「お母さん、離婚しようかと思うけど、あんたお父さんいないとイヤ?」 的な会話がなされ・・・っていうねーーー・・・。
「シラネーょ! てか、子どものオイラから見ても、子ども抱えてママ働けるタイプ違うと思うねん・・・。思うけど、言えねーケド。」
ここで、うさぎママから
「女は手に職!! なんつっても、手に職! 一生続けられる仕事がないと、いざって時に離婚できない!!」
が始ったのかと思われる
・・・・はい、ここまでがプロローグw
松木武久農園は、長野県の北、飯綱山の麓、写真のような風景の地域にございます。真っ赤に色づいた「新世界」りんごの木の向こうに、ちょこっと見えている 「お山の山頂」 あれが、飯縄山でございます。麓まで登って近すぎるから、山も返って小さく見えます。
店舗は、長野駅から車で20分程。 浅川ループ境に向かって頂いて(七曲ではありませぬ)、トンネル2つ超えて、一軒目の直売所です。

目印は、オレンジ色のこの看板です。大きな右カーヴを超えると見えてまいります。
店舗内では、市内スーパーに卸すりんごを袋詰めしたり、贈答用のりんごをお詰め合わせしたり・・・しております。
こちらは、その名も 「がけ」って名前の畑です。畑は、標高300~800mの地域に10ヵ所くらいあります。
①上の原
②墓場
③古屋敷
④だいじごさん
⑤たっちゃん家の前
⑥がけ
⑦向け山
⑧吉池
⑨東の田
⑩東伺里
⑪西伺里
⑫塔の尾
*無農薬の木
一ヶ所に広大な畑がどどーんとある訳ではなく、田んぼに向かない傾斜地の、坂の畑が多く、そこここに点在しております。
店舗は、今年で13年目になります。
2011年11月15日 Posted by 松木うさぎ at 00:32 │Comments(2) │TrackBack(0) │松木武久農園について
最後のひとつ!!
皆様こんばんわ。松木武久~深く眠る~農園の営業担当です。
今日は、無農薬で栽培中の木の撮影もして頂きました。 最後の3つが・・・一つになってしまっていたのは確認済みだったのですが、今日の撮影までもったら、収穫してるところを撮影して貰うおうと考えてました。
うさぎがヘッポコでも、りんごの木は超~えらいょ
おねーさんを車に乗っけて、畑に向かいながら、ドキドキしてたのですが(絶対にまだ残ってるという根拠のない信頼感
と、先日の雨や気温の変化で完熟して落ちちゃったかも
)・・・・

ありましたーーーー
最後のひとつの実が・・・まだ頑張って、うさぎを待っててくれました
ハシゴに登って、もいでる写真も撮影して頂けました。 まだ写真のデータ焼いて貰ってないから、頂いたらアップしますね~。
うさぎご機嫌でりんごと映ってるです!
帰宅して、武久君に見せる!! うさぎママにも見せる!
「立派なもんじゃないか? あー、でも、ヒッデーすす病になってるな。」
「すす病には毎年なってたけど、腐ってないし、これなら糖度も、この前よりも更にあがってると思う。」
食後に食べようかと思っていたが、メールチェックとかして、ブログ書き終えて、腹減りで10時過ぎに食卓に向かうと・・・二人共、既に寝てました・・・。だよねぇ~。

まずは神棚に明日の朝、武久君にお供えして貰おうと思います
「無農薬でりんごを作りたい!」
そういう農業をやっていく為に、跡を継ぎたい・・・そういう風に思ってからは、もう何年でしょ~。 引き篭もってる頃から秘かに考え続けて、結局、サービス業についてみたり・・・紆余曲折ありながら、やっとこ農業でやっていこう!と腹をくくってからも・・・
一本だけ切らずに残ってる木は、消毒してないから無農薬だけど、ナニをすればいいのやら??? 「酢をまく?」って、木村さんのご本に書いてあるが、まさか食酢じゃないよねぇ・・・・。
下手に分からないまま、おかしな事をするよりも、慣行栽培で今まで農薬かけたり、肥料をあげてきてるのを抜けていくのを待ちながら、様子を見ていこう。 当時は、そんな風にしかやりようがなくって、とにかく畑にたまに行っては、りんごの木を眺めるばかりでした。そんな中で、情報を集める為にSFG会を立ち上げたり、人から紹介されて長野市内で無農薬栽培をしてる先輩と知り合えたり・・・。
うさぎの着ぐるみで、三越地下で開催の木村さんの出版記念イベントに駆けつけたり
なんだかんだと、やっていくうちに、なんとか今年は収穫できるまでになりました。 収穫できたとは言え、販売できる状態でも、量でもないので・・・・これでは、
「農業で食っていける! 自然栽培のりんごを作って生計を立てられる!」
・・・・という目標にはちっとも至りません。 至りませんが、初めの一歩をやっと踏み出せたのだと思います。
とにかく、ヘッポコうさぎと付き合って、頑張ってくれている~りんごの木~と、自然に感謝したいです。

は~い、虫除けのストッキングを取りま~す!

すす病だけど、頑張って最後まで実っててくれた、りんごちゃんでーす

早めに収穫したのとは違って、色もつきましたぁ~。
*写真のおねーさんに、データで頂いた写真アップしてみました。なぜか?アップ出来ない写真もあるのですが・・・とりあえず~
過去のメディア取材(報道ゲンバ:2009年晩秋?)・・・http://www.youtube.com/watch?v=HMxjfaCD-ss&feature=youtu.be
(346Bar:2010年夏)・・・http://www.youtube.com/watch?v=SVQ5UXaGD88&feature=related
今日は、無農薬で栽培中の木の撮影もして頂きました。 最後の3つが・・・一つになってしまっていたのは確認済みだったのですが、今日の撮影までもったら、収穫してるところを撮影して貰うおうと考えてました。
うさぎがヘッポコでも、りんごの木は超~えらいょ

おねーさんを車に乗っけて、畑に向かいながら、ドキドキしてたのですが(絶対にまだ残ってるという根拠のない信頼感
と、先日の雨や気温の変化で完熟して落ちちゃったかも
)・・・・ありましたーーーー

最後のひとつの実が・・・まだ頑張って、うさぎを待っててくれました

ハシゴに登って、もいでる写真も撮影して頂けました。 まだ写真のデータ焼いて貰ってないから、頂いたらアップしますね~。
うさぎご機嫌でりんごと映ってるです!
帰宅して、武久君に見せる!! うさぎママにも見せる!
「立派なもんじゃないか? あー、でも、ヒッデーすす病になってるな。」
「すす病には毎年なってたけど、腐ってないし、これなら糖度も、この前よりも更にあがってると思う。」
食後に食べようかと思っていたが、メールチェックとかして、ブログ書き終えて、腹減りで10時過ぎに食卓に向かうと・・・二人共、既に寝てました・・・。だよねぇ~。
まずは神棚に明日の朝、武久君にお供えして貰おうと思います

「無農薬でりんごを作りたい!」
そういう農業をやっていく為に、跡を継ぎたい・・・そういう風に思ってからは、もう何年でしょ~。 引き篭もってる頃から秘かに考え続けて、結局、サービス業についてみたり・・・紆余曲折ありながら、やっとこ農業でやっていこう!と腹をくくってからも・・・
一本だけ切らずに残ってる木は、消毒してないから無農薬だけど、ナニをすればいいのやら??? 「酢をまく?」って、木村さんのご本に書いてあるが、まさか食酢じゃないよねぇ・・・・。
下手に分からないまま、おかしな事をするよりも、慣行栽培で今まで農薬かけたり、肥料をあげてきてるのを抜けていくのを待ちながら、様子を見ていこう。 当時は、そんな風にしかやりようがなくって、とにかく畑にたまに行っては、りんごの木を眺めるばかりでした。そんな中で、情報を集める為にSFG会を立ち上げたり、人から紹介されて長野市内で無農薬栽培をしてる先輩と知り合えたり・・・。
うさぎの着ぐるみで、三越地下で開催の木村さんの出版記念イベントに駆けつけたり

なんだかんだと、やっていくうちに、なんとか今年は収穫できるまでになりました。 収穫できたとは言え、販売できる状態でも、量でもないので・・・・これでは、
「農業で食っていける! 自然栽培のりんごを作って生計を立てられる!」
・・・・という目標にはちっとも至りません。 至りませんが、初めの一歩をやっと踏み出せたのだと思います。
とにかく、ヘッポコうさぎと付き合って、頑張ってくれている~りんごの木~と、自然に感謝したいです。
は~い、虫除けのストッキングを取りま~す!
すす病だけど、頑張って最後まで実っててくれた、りんごちゃんでーす

早めに収穫したのとは違って、色もつきましたぁ~。
*写真のおねーさんに、データで頂いた写真アップしてみました。なぜか?アップ出来ない写真もあるのですが・・・とりあえず~

過去のメディア取材(報道ゲンバ:2009年晩秋?)・・・http://www.youtube.com/watch?v=HMxjfaCD-ss&feature=youtu.be
(346Bar:2010年夏)・・・http://www.youtube.com/watch?v=SVQ5UXaGD88&feature=related


