長野市民新聞
H26年10月21火・朝刊掲載記事
店舗販売(送料込み:3kお詰合せセット等・・・)
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8種類お詰合せセットは、「名月」
「シナノゴールド」「王林」の完熟次第の発送となっております。
10月下旬~11月中旬まで(ご予約優先・限定品)→ http://www.matsuki-ringo.com/products/detail.php?product_id=6
●シナノゴールドの収穫時期と食べ頃の旬
シナノゴールドの収穫時期は長野県で10月上旬に始まり、青森県では11月頃までとなっています。シナノゴールドは保存性も高く、低温化で貯蔵されたものは2ヶ月から3ヶ月後まで出荷されているようです。なので、出回るのは年明け2月頃までとなります。食べ頃の旬の時期は10月中旬から12月ごろまでと成ります。 http://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/ShinanoGold.htm
BS朝日 ボクらの地球 熊野古道から神々の森へ 知の巨人・南方 ...
しかし、明治時代、政府の神社合祀(ごうし)令により多くの神社が廃止、合併され、鎮守の森が伐採される危機に直面した。そのとき、この森を守ったのが、和歌山市出身の世界的な学者、そして大いなる「変人」として知られた南方熊楠だった。博物学者であり、生物学者であり、民俗学者でもあって、あの世この世のすべてのことを研究対象とした熊楠。彼は、「エコロギー(独)」(エコロジー)という概念をもとに、時の政府と渡り合い、現在も残るいくつかの森を守った。 そして、変形菌(粘菌)という不思議な生き物のライフサイクルなどをヒントに、「南方マンダラ」という、奇妙で謎めいた図を残している。
南方マンダラの謎を追って、熊野古道を旅する。
http://www.bs-asahi.co.jp/ourearth/prg_017.html
理想の男
森と水と共に生きる~今から100年前、森と水を守ろうと奔走した二人の男がいた。「生命(いのち)の思想家」田中正造と「知の巨人」南方熊楠である。~・・・http://www.nhk.or.jp/nihonjin/schedule/0122.html
南方熊楠の生涯「何をした、どんな人?」~変化の激しい現在、今まさに社会に求められている「人とのぬくもり」や「自然環境の保全」などに対する思いやりや、また「書物を読み、書き、知識を得る」ことなどの文字ばなれが進む今日、熊楠がさきがけて実践した、学問への前向きな姿勢や、エコロジ-などを、 広く多くの人々に少しでも理解してもらうため、翁の生涯を簡略に跡づけてみることにしたい。~・・・
1883年(明治16)3月、和歌山中学を卒業して上京し、神田の共立学校で勉強したのち、翌年、大学予備門(後の旧制第一高等学校、現東京大学)を受験して合格、入学した。同期生には、正岡子規、夏目漱石、山田美妙(びみょう)らがいた。
しかし、学校の授業には興味を覚えず、校外に出て図書館での抄写や、上野博物館、動物園や小石川大学植物園などで自学し、また考古遺物や動植鉱物などの標品を採集することが多かった。
このころ、世界的な隠花植物学者イギリスのバ-クレイや、アメリカのカーチスという植物学者が菌類(キノコ・粘菌など)を6000点集めたと知り、それ以上の標品を採集し、図譜を作ろうと思い立った。
こうした有り様で、学業には精を出さず、学年末試験に失敗したこともあって、1886年(明治19)2月帰郷し、アメリカに渡って勉強したいと父に申し出た。当初は反対していた父も、その熱意に負け渡米を許した。
1892年(明治25)1月、ジャクソンビルに戻り、八百屋の中国人江聖聡の家に厄介になり、そこでフロリダやキューバなどで採集した植物を、夏までかかって整理した。8月に江が店を閉じ、故国、中国へ帰るようになったこともあって、かねてから渡英することに決めていた熊楠は、ニューヨークに行き、9月14日シティ・オブ・ニューヨーク号に乗船した。アメリカ滞在は6年であった。
田辺での生活は、熊弥が誕生したのち、夫婦不和で松枝婦人が実家に帰ったりしたこともあったが、その後は酒を飲むことも少なくなり、また、熊弥の一々のしぐさや幼児言葉を詳細に日記につけており、熊弥への深い愛情と将来への期待をこめたことがうかがい知れる。 しかし、熊楠の日常の生活のサイクルは午前11時頃起床し、午後から翌朝5時頃迄、標品整理、図記、調べ物、読書、執筆などであったため、松枝夫人は機(はた)を織りながら、お手伝いの者と、泣き虫であった熊弥の世話に大変気を遣っていたもようである。
この頃1910年(明治43)7月、多屋家の借家の前の宅で米を搗(つ)く音が耳障りになり、同じ中屋敷中丁の、藤木八平の別宅に転居し、別棟の書斎を建てた。
翌年3月、全国行脚の途中田辺に立ち寄った、俳人河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)が来訪し、
「木蓮(もくれん)が蘇鉄(そてつ)の側に咲く所」 という句を詠んだ。
1911年(明治44)10月には長女文枝が誕生した。
http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu/life/life.htm
今の自分の根っことなるべきものとは、17歳までにほぼ出逢ってる。
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